千代田区・神田公園地区連合町会のサイトです。

錦町一丁目町会長  熊井 實 氏(くまい みのる)平成12年6月〜平成26年5月

残暑厳しい8月の最後の月曜日
神田公園区民館2階のサロンギャラリーで
町会長いんたびゅー第4回目のお客様をお迎えしました。

今回は錦町一丁目町会の熊井 實町会長にお話を伺います。

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熊井会長が現在、町会長として一番大切にされていること、また、町のことで困っていることや気になることをお聞かせください。

 大切にしていることはコミュニケーションでしょう。震災が起きた時などに、隣にどんな人がいるのか全然わからないというのでは困る。だから、企業の方にも町会に加入し、普段から行事にも参加してもらう。「夜警の詰所?町会で使うのでしたらどうぞ。」って会社の敷地を使わせてくださる。(企業会員さんを)他の町会の人に紹介する時も普通に「うちの町会の人よ。」と紹介する。そういうのがいい。ここにいる皆で仲良くやっていこうよというのが。

 困っていることですか。う〜ん。町会のお手伝いをしてくれる人がいなくなってしまったことかな。

 その場所で親の商売を継ぐ人が少なくなってきたり、店が小売店から企業になったりすると、子どもたちが皆サラリーマンになるでしょう。そうすると昼間、地元で顔を見ることがめったになくなって、大人になるとどこのお子さんだったのかわからなくなる。お祭りとかあると顔が見られていいけどね。

 今の若い人たちは、朝9時前に会社に行って、帰りは午前様ならまだいいほうという状況でしょう。世の中全体が皆働き過ぎなんだなあ。日本の経済がそれでもっているというのが良くないね。夕方6時になったら仕事を離れてゆっくりやりたい事ができるようにならないと。

 今は、若い人にはちょこっとでもいいから町会の行事に顔を出して、参加して、なじんでいって欲しい。それが入口じゃないかな。若い人たちにやってもらいたいことはたくさんあるけれど、自分のできる範囲で手伝ってもらえればいいね。親が「少しこれやってよ。手伝ってよ。」って少しずつ引き継いでいくのでいい。

 でもね、今うちの町会では奥さんたちがすごく頑張ってくれる。うちの町会は婦人部でもっているんじゃないかな。(これ、本当のことだからちゃんと書いてくださいね。)

町会長さんになって、ご苦労も多いと思いますが、嬉しかったこと良かったことをお聞かせください。

 町会の中が、皆で仲良くしていきたいという雰囲気になってきているということが嬉しいね。「何でも遠慮しないで言ってよね。」というのがうちの町会の雰囲気。それと是非アピールしたいのが、婦人部パワーだね。何でも任せればやってくれる。忙しい息子たちの分を補ってくれている。

地区のコミュニティ活性化に大切なものは何でしょうか。

 自分の町以外も知ること、自分の町だけにこだわらず少し広域的な交流をしていくことでしょう。体育協会の関係で、天下祭では企画段階からいろんな打合せに参加させていただいて、イベントの目的は「広域的な交流」だと感じた。イベントを契機に仲良くなれたらいいね。例えば錦町一丁目と二丁目では太田姫稲荷神社と神田明神で氏子が違うから祭も隔年で行われる。そういうとき見ていて楽しいというより隣だったら参加して欲しいでしょう。二丁目と三丁目で錦連合を作って、一丁目は入っていなかったが、応分負担して担ぐよ、というように「おらが町会」も大切だけれど、それにこだわることはないよね。皆には広域な視点で、もっと自由にやってもらいたい。最終的なことは町会長が責任を持つけれど、自由にやるということは、自分でも責任を持つということだから。それが大切なことだと思うよ。

小さい頃は、どんなお子さんだったのでしょう。趣味等も併せてお話いただけますか。

 「みーぼう」と呼ばれていた小さいときは今と違って丸々太っていたね。子どもの頃はまだ(戦争前で)食べ物はあったからね。痩せたのは戦時中、小学校3〜4年の頃かな。栄養が十分摂れると言われ、どこでも玄米飯ばかりだった。消化不良を起こしてね、それから太れなくなったんだね。兄弟3人で体重は合せて150キロを超えなかった。

 家は、財布などを作って売る皮小物の製造販売をしていた。三尺のウインドウがあって、戦時中、陸軍の兵隊が鰐皮を13枚持って注文に来たのを覚えているけれど、どこから持って来たのかなあ。
(写真は三歳のお祝いの記念)

 小学校3年から5年までは、剣道を習いに神保町の高野道場へ通っていた。野球も好きで、遠藤さんところのご主人(遠藤婦人部長のご主人のお父さん)と父親と3人で神宮球場の早慶戦をよく見に行った。青山4丁目から並んでいたのに、子どもはダメだと列から出され、潜り込んで見たこともある。いつも満員だったね。
 
 スポーツは全般に好きで、息子にも勉強はさせなかったが、スポーツだけはやらせた。高校時代は庭球部で、写真は、お茶の水の軍艦山にあった岸記念体育館のテニスコートで撮ったもの。そういえば剣道が禁止になって、竹刀術とかいう名前で呼んでいたなあ。

座右の銘とかこだわりとかがありましたら教えてください。

 「上見てきりなし。下見てきりなし。」というのが、父親の口癖だったこともあって、人生は人をうらやんでいたって仕方がない、しょぼくれていたって仕方がないって考える。ただ、何でも本物を見ること、本物を身に付けるように育てられた。贅沢ではなかったけれど、財布も本物、靴も誂えたりした。日展にも小学生の時から行っていた。だから、本物志向というか、イミテーションは苦手だなあ。

 自分が子どもの頃、町の人は皆親切で、両親が出かけて留守番をしていると、隣の人が夕飯を食べさせてくれた。自宅で食べ損ねちゃうと隣で食べた。そんなのがあたりまえのように大人はどこの子も分け隔てなく面倒を見ていた。よその子にも自分の子どもと同じものを与え、風呂屋でマナーが悪かったりすると、やはり同じように叱って教えた。“いい時代だった”と思っているから、そういういいなと思っていることを皆と話し合いながら、少しずつ取り戻していきたい。まず、「おはよう」という“声かけ”から輪を広げていきたいね。
(写真は婦人部の皆さん 5月太田姫稲荷神社祭礼で)

最後に、「大好き神田」をご覧になったことはありますか。このHPで何が見られたら良いとお考えですか。

 パソコンができないからまだ見ていない。子どもに教えてよと言ったら、自分でやれよと言われちゃったよ。今は仕事の方が忙しくて自分自身の勉強をする時間がないなあ。

 HPに期待することは、行事の予告と地区内の店の宣伝かな。神田は広いから、有名な店でなくても地区内の小さい美味しい店とかを口コミ代わりに探せるツールになるといいね。やはり神田から商いは除けないでしょうね。


ありがとうございました。

♪ インタビューを終えて
ご自身の貴重なアルバムを持参頂き、昔の町並みなど説明頂きながらのインタビューで、とても勉強になりました。 
ご商売柄もおありでしょうが、おしゃれでスマートな紳士の熊井会長でした。
ありがとうございました。
竹内

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