千代田区・神田公園地区連合町会のサイトです。

小川町北部一丁目町会長  三谷 健太郎 氏(みたに けんたろう)平成21年6月〜令和元年5月

小雨交じりのあいにくのお天気となった5月24日月曜日
第22回目の町会長いんたびゅーのお客さまにお迎えしたのは
小川町北部一丁目町会の三谷 健太郎 町会長です。
神田公園区民館2階のサロンギャラリーでお話を伺うインタビュアーは
内神田鎌倉町会の斎藤光治さんです。

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昭和60年に僕が青年部長だったとき、三谷さんも青年部長をされていましたね。

三谷会長: 斎藤さんの前任の青年部長さんの時も青年部長をしていましたから、昭和57年より前だけど、いつからだったかな。昔は青年部長の仕事といえば体育大会だけでした。それ以外はなかったのに、終わるといつも打ち上げも反省会もなくサヨナラだった。それで、どうしても旅行に行きたくて、(町会長には予め頼んでおいて)町会長会議に乗り込んで行って「青年部も旅行に行かせて欲しい」と頭を下げて帰ってきた。まだ、町会長会議が出張所の和室で行われていた頃でしたね。
初めて旅行に行かせてもらった場所は熱海温泉で、その時の出張所長が来てくれました。

斎藤さん: 次の年は湯河原でしたね。結構大勢行きましたね。僕も一人分の旅費を副部長と分けて二人で参加しました。

三谷会長: うちの町会は、旅費の補助は半額だったから残りは自前でした。(笑)

斎藤さん: 体育大会の20周年記念に、桃太郎の仮装をやった写真が、「神田公園地区連合町会創立30周年記念誌」に載ってますよ。

三谷会長: 胴着を着て一番前を歩いているのが私です。宝を載せたリヤカーを曳いているんだが、丸山さんという人が、宝物を発泡スチロールで上手く作ってくれて、これが結構良くできていた。写真で見えないのが残念。




「創立30周年記念誌」19ページの写真から。行列左から二人目が三谷会長

三谷さんは、淡路小学校のご卒業でしたね。入学されたのは戦時中でしたか。

三谷会長: 小学校1〜2年のときに疎開して、翌年には終戦になったけれど、帰ってきたのは小学校4年生くらいでした。親から「食べ物があるから、しばらくそこにいろ。」と言われてね。実家が、茨城県の布川という所に6町歩ほどの土地を持っていて、そこに疎開していたけれど、戦前はお米は買ったことはなかったらしいよ。東京の空襲の時は、利根川の土手の所で東京の方が真っ赤になるのを見ていました。

 実家はパン屋で、戦後は菓子も売っていたが、菓子問屋に品物が無かったので、作っている工場に直接買いに行きました。小学校5・6年の頃から、このお使いに行かされて、中学校の頃は、学校から帰ると毎日のように買い出しの用をさせられていました。
一番遠かったのは、今の錦糸町の場外馬券売り場の裏のほうでした。そこに、“お好み揚げ”って言って、エビせんの細いのが混じっているお菓子を作っている家があって、石油缶に入ったものを、二缶くらい自転車で買いに行っていました。
 その家では店の中にゴザをダーっと広げてそこにお菓子がばら撒いてあって、それを混ぜながら拾って缶に詰めてくれるのを待っているんだけど、買いに来た人たちはみんなその間、お菓子を食べながら待っていました。

斎藤さん: 昔は、そういう町工場みたいなところで作っていたんですね。

三谷会長: 作るところはあっても、まだ流通が整備されていないから売れない。だから買いに行くと喜んで売ってくれました。父親が予め作っている家に行って話をまとめてきて、買いに行くのは私でした。人形焼き、長崎カステラ、カリントウをなんかも買いに行きました。長崎カステラは、売り物はきれいに切ってあるでしょう。買いに行くと、待っている間にその切端をもらって食べているんだけれど、美味しくてね、店で食べ、帰りには袋に入れてもらって持ち帰りました。カステラの端は、蜜が一杯で美味しいんだよね。 
 

中学校は一橋ですか。

三谷会長: 練成中です。練成中の二期生です。練成小学校を修理して中学校の校舎として使っていたんだけれど、当時の廊下なんかはスノコがおいてあるだけだったので、生徒が暴れて通るとスノコが陥没しました。

斎藤さん: 戦争で焼けた建物だったんですね。冬はダルマストーブですか。

三谷会長: そう言えば、ダルマストーブに弁当を載せて食べるのが美味かったね。
 練成中の近くに「白湯(しろゆ)」という薬湯の銭湯があってね、そこで使う石炭の塊がいつも道路にはみ出している。それをうちのクラスの50人の生徒が、朝学校に来る時一つずつ拾ってきて、石炭バケツに入れていた。だから、教室で一日中ガンガン燃やしてもなくならない。
 授業に来た先生が、「ここのクラス、こんなに景気よく燃やして一日持たないぞ。」って言うんだけど、皆クスクス笑っている。学校では石炭バケツに一日軽く一杯と決まっていて、そんなもの本当に燃やしたら半日でなくなっちゃう。
 こんな大きな塊を拾ってくるのもいて、ずっと本棚の後ろに隠していたけれど、結局使えなくて、卒業式の頃になってようやく燃やしました。

 高校は、昼間は働いて、芝商業の夜間に通いました。午後5時半から授業が始まって、2時間目が終わるのが7時少し過ぎでしたが、その時間になると学校を抜け出して、有楽町に映画を見に行きました。

       

そこから映画大好き少年になったんですね。三谷さんは神田の映画評論家ですね。3Dもその時代から見ていたんでしょう。

三谷会長: 一年で300本くらい見ました。本当によく見た。「モルグ街の殺人」という映画が3Dでした。その映画の中でショーをやっていると風船が上からどんどん落ちてくる。先日、アバターを見たときも同じような構図でした。当時の3Dは見ていると、目が痛くなって涙が出てきたけれど、アバターは目は痛くならなかったね。

斎藤さん: 神田も映画館がたくさんありましたね。

三谷会長: ところが神田で見たことが無い。有楽町のロードショーばかり。学校から駅まで5分、有楽町まで電車で5分、映画館まで5分と、予告編の時間などを計算して学校を抜け出して見に行ったけれど、最後は名画が好きになって、当時はもう見られないような映画を見たくて「名画座」みたいな所へ見に行った。小津安二郎の「麦秋」や「秋刀魚の味」とかを見ました。パンフレットもたくさん持っていたが、家を建て替えたときに捨ててしまいました。今思うともったいないよ。

お酒を嗜まれるようですが、運動とかはされているんですか。

三谷会長: 毎朝5時から働いているんですよ。だから平日は、午後7時半ごろには寝てしまいます。先日の連合の総会は8時半を回ったから眠くて仕方がなかった。(笑)朝は、通勤のサラリーマン向けにおにぎりの弁当を売っていて、ご飯の電気釜のスイッチを入れるのは私の役目。業務用の電気釜にはタイマーがないからね。

斎藤さん: 早寝、早起き、昼寝は健康の秘訣ですね。

三谷会長: でもね、夕方7時過ぎに寝ると、夜中の1時過ぎには目が覚めてしまって、ラジオを聴いている。NHKで年寄り向けの“ラジオ最終便”というのがあるから、一度聴いてごらんなさい。夜11時から朝5時までやっていて、番組あてのハガキを紹介するんだけど、年寄りには“ラジオネーム”とかなくて、皆が本名で書いてくるから、おかしいよね。匿名もない。番組の中で、昔の女優さんとか出てきて対談もあって、面白いよ。

斎藤さん: 夜中から明け方の番組ですよね。そう思うと日本の社会はいろいろなんですね。昼間もあるし、夜中もある。皆、行動している時間が違う。コミュニケーションの取り方も、夜中FMで聴いていたら、メールかと思うけれど、今の話からすると多くの人がハガキかFAXなんですね。
 他の町会長さんも夜9時くらいには寝ているって言うし、平均的な町会長さんたちの睡眠時間は何時から何時までなんでしょうか。夜中の1時には、皆さんもう起きていらっしゃるかもしれない。(笑)

  

三谷さんは、100名山のうち47を登っているんですね。それも気に入ったところは何度も登られたとか。

三谷会長: 今でも山岳会には入っています。登山は40代くらいまで、スキーでは一ノ倉岳の天辺から滑ったことがあります。夜行で朝着いて、スキーを担いで頂上まで行って、一回滑って帰ってきた。乗鞍岳のコロナ観測所からも滑った。乗鞍岳では、山小屋に酒が切れていたから、下の乗鞍高原まで滑って降りて、リュックの中にビール瓶を入れて、スキーを担いでもう一回登りました。山で飲むのが美味しくて、スキー場ではなく“山のスキー”が多かったね。

斎藤さん: 重たいお酒をリュックに入れて登ることはないと思うんですが、山で飲むのは余程美味しいのでしょうね。

三谷会長: 今は飛行機の機内に液体が持ち込めなくなりましたが、若い頃は一升瓶を持って搭乗しました。スチュワーデスに、「長い間乗務してきたけれど、一升瓶を捨てるのを頼まれたのは初めてです。」と言われた。絵が好きでパリには何度か行きました。円の持ち出しが10万円の頃でした。

小川町4町会で一緒に神輿を作られましたね。

三谷会長: 20年ほど前に、4町会で神輿を作りましたが、当時私が一番年上だったので、神輿を作る会の会長を引き受けさせられました。それまでは神輿はレンタルでしたが、3千円を3年間積み立てて10万円、最終的には2,500万円くらいになりました。千代田のビデオ広報にも特集で載りました。今は、幸徳稲荷の一階の奥にしまってあります。だから祭のときに出すのも簡単です。神田明神の神輿倉は、エレベーターがびっくりするほど遅いから出し入れに時間がかかるでしょう。あれだけは、一度乗ると、いやになっちゃうくらい長い、一階に行くのに何分もかかる。

斎藤さん: 鎌倉町のは一階だから楽ですよ。

三谷会長: 幸徳稲荷を作った昔の役員さんは偉かったね。幸徳稲荷をビルにして、お宮さんを上にあげて、2・3階の会議室を貸会議室とした。以前は良く利用され、神社の経費負担もそこから出すことができました。

♪ インタビューを終えて
 三谷会長さんのインタビューは、とりとめのないお話で楽しい時間が過ぎてしまいました。
ページの都合で割愛させていただいたお話し(山で遭難しかけたこと、街の再開発のこと)なども伺いました。
三谷会長さんのご健康と小川町北部一丁目町会さんの益々のご発展をお祈り申し上げます。

斎藤

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