多町一丁目町会長 迫 敬輔 氏(さこ けいすけ)平成22年5月〜平成24年6月
第24回目の町会長いんたびゅーは、 平成23年2月14日(月)午後2時から 神田公園区民館2階のサロンギャラリーで 多町一丁目町会の迫 敬輔 町会長をお迎えして行われました。 この日の東京は夜から未明にかけて雪になり、 日中の最高気温は6.6度。 インタビューが始まる頃は気温もさらに下がり、 今にも降り出しそうな空模様でしたが、 今回も、インタビュアーの斎藤光治さん(内神田鎌倉町会)が 軽快なテンポで迫 会長からお話を伺っていきます。 ★ ★ ★ ★ ★ ★ |
「大好き神田」のアクセスが今年で14万回を超えましたが、迫さんはご覧になったことがありますか。
迫 会長: PCでは見ていませんが、携帯に登録していますので、携帯の画面で見たことはあります。皆さん誰もが見られるものだと思っているかも知れませんが、うちの町会では携帯電話も持っていない人が多くて、少なくとも年寄りは、まずだめでしょうね。 岩崎連合会長さんみたいな方もいらっしゃるけど、我々には、ちょっと遠い存在になっていますよね。 斎藤さん: 岩崎会長さんの小川町三丁目西町会には、PCをされる方が多い。前会長さんも「大好き神田」を見て、「ひろば」に投稿してこられます。 迫 会長: 携帯電話だけは持っています。皆さんがメールを送ってくるので、僕も何とかできるようになりました。最初の頃はメールをもらうと必ず電話をしていましたが、その度に「なんで電話してくるの。メールしたでしょ。」と怒られていました。 丸山前会長は、携帯電話を持たなかったので、用事があるときに会長を探すのが大変でした。 斎藤さん: 携帯が無かった頃は、“この時間に、あの人ならきっとあそこにいるだろう”と考える、それも大事なことかもしれませんね。(笑) 丸山さんが、このインタビューのトップバッターでした。丸山さんが連合町会長さんだった時に、「大好き神田」を皆さんにもっと見ていただこうということで、「町会長いんたびゅー」という企画をして始まりました。あれから4年も経ちましたね。 |
迫会長さんはお生まれはどちらですか。
迫会長: 父親が満州鉄道に勤めていましたので、生まれたのは北京です。戦争中に、母、兄、私で先に帰国して、旅籠町(はたごちょう)の生まれだった母が戦後やっちゃ場の近くで飲食店を始め、昭和27年までそこに住んでいました。 僕は斎藤さんとは、ちょっとしか年が違わないと思っていたのに、やはり戦後生まれと戦時中の生まれでは違いますね。戦争を挟んでの世代では、考え方もそうですが、常識もどうしても少しずれますね。 僕は、サンフランシスコ講和条約のときには、小学校1年でした。粉ミルクなんて、斎藤さんは知らないでしょう。 |
斎藤さん: 脱脂粉乳ですね、僕は知っていますよ。戦後の援助物資で来ていたんですね。給食室の所にアメリカと日本の国旗が握手をしているような絵が付いていました。 迫会長: 脱脂粉乳を飲めない子がたくさんいました。特に女の子が多かった。それが、僕にとっては美味しかったので、女の子が「迫君、飲んで」と皆で持ってくる。 中学校を卒業した時、小学校のクラス会をやりましたが、小学校の時は中くらいの背丈だったのに、僕が一番大きくなっていました。そうしたら、ミルクのせいだと皆が言うんですよ。「みんなの分飲んでたもんね。」と。確かに一日3合から4合は飲んでいました。肝油ドロップも美味しくて、食べられない子の分も食べていました。貧しい時代に育ったので、今でも食べるのが早いし、残さないし、食べ物で嫌いなものが何もないです。 (右の写真は、小学校6年生のとき中学受験用に写したもの) |
ご趣味は何ですか。
迫 会長: 今は読書と豆盆栽ですが、若い頃は、スキー、ヨット、ラリーをしたり、クイズ番組にも何度か出場しました。アメリカ横断ウルトラクイズとかアップダウンクイズなどテレビのクイズ番組に応募して、海外には5回行きました。 大学1年のときに、東南アジアへ貧乏旅行をして以来、外国に行きたくて仕方がなかったのです。 東南アジアへは、船で行ったのですが、サイゴン(現在のホーチミン市)で下船する際に、カメラや時計、お金をしまっておくよう注意されました。下船すると、小さな子どもたちが、わっと寄ってきて、歓迎してくれたのだと思ったのですが、実は皆、戦争孤児で、私の服のポケットすべてに手を入れてきたのでした。びっくりしたとともに、とても悲しい気分になりました。ちょうど、ベトナム戦争が一番激しい時だったので、そのような経験をしたのですが・・・。 当時は1ドル360円の時代でした。パック旅行もなく、妻が「クイズでも出たら?」と言ったのが応募の始まりでした。 斎藤さん: あの頃は、“ハワイに行く”というクイズがいろいろありましたね。しかも、今のようにペアではなく一人分の招待旅行でした。 |
迫 会長: ウルトラクイズでは、2回ともサイパンやグアムまで行きました。3回目のときは、妻の弟が最終目的地のニューヨークでチャンピオンになりましたが、僕はサイパンで落ちてしまいました。疲れて眠りこけていたときに、出題者が起こしに来て「問題言うね・・・」と始まり、ぼーっとして答えたら、「残念だけれど、迫さんはここから帰国だよ。」と言われました。あの時はすごくショックでしたが、何回も出ているうちに仲間もできました。 斎藤さん: あの頃は若い人は皆海外に行きたがりましたね。最近の若い人はそれほど外へ行きたがらない。変わってきていますね。 (右の写真は、クイズに正解してグアムからハワイに行くところ。ハワイ行の人は笑顔でメダルを付けている) |
迫 会長: 山登りとスキーにもよく行きました。大学の頃は、一度山に入ると1週間から10日間くらい帰りませんでした。岩登りではなく、北アルプスを端から端まで尾根をずっと歩いたりしました。 斎藤さん: 三谷さん(小川町北部一丁目町会長)も山が好きで、インタビューの時は山の話をずいぶんされていましたよ。 迫 会長: 三谷さんには、昨年の町会長の研修旅行のときに、「散歩に行くぞ。」って朝早く起こされました。「他の人は寝ていても、君は若いんだから起きなさい。」と言われた。 斎藤さん: 三谷さんは早寝早起きで、夜中の3時くらいにはもう起きてラジオを聴いているそうです。 迫 会長: 起こされたのは、朝5時前でしたね。何だろうと思いましたが、ずっと待っていたんですね。「迫君、寝たの早かったでしょう。もう起きてもいい頃だ、風呂行くぞ。」って言われました。私は、普段はちょうどこれから寝るという時間です。(笑) |
盆栽は千代田区の作品展にも出されているのですね。
迫 会長: 今は豆盆栽を500鉢ほど管理しています。植物は、根の量と上の体積がほぼ同じなので、その性質を利用して小さな鉢で作ります。根が少ししかないと、バランスをとるため木のほうが我慢します。人工芝などを敷いた上で育てると水持ちは良いのですが、水を欲しがって鉢底の穴から根がどんどん伸びるので、1週間に一回くらい根を切ってやらないと、木のほうが伸びて(徒長枝って言うのですが)盆栽の形がどんどん崩れてしまうのです。 街路樹でも剪定をしないものは、根が地中深く入っていくので、台風にも強い。以前に京都大学の偉い先生の講演会を聞きに行ったら、“街路樹はできる限り剪定するべきではない”という持論をお持ちでした。日本の街路樹が台風や大風吹くたびに倒れてしまうのは剪定するからだと話されていました。 斎藤さん: 今度まちづくりの会議のときに話されたらどうですか。 迫 会長: 実は、ちょっと話しましたけど、新人なのであまり話せません。斎藤さんもそうでしょう?(笑) |
お店の名前が「でくのぼう」ですね。
迫 会長: 宮澤賢治の「雨ニモマケズ」の最後に出てきますね。僕はあれが好きなんです。「決して怒らずいつも静かに笑っている・・・」なかなかなりきれませんが、僕が目指している生き方です。 斎藤さん: 「和」という言葉を、すべての町会長さんが、町会で一番大切にしていきたいものとして話されますが、それだけ難しいということですね。簡単な一文字なんですけどね。 迫 会長: いろいろな人がいらっしゃるし、給料をもらっている仕事とは違って、町会は嫌だったら出てこなくなります。 斎藤さん: 昔は、大変でした。もっと表面的にバーンとやりました。例えば、お祭りのときに気に入らない人の所に突っ込んだりということもあったようです。 やはり、日頃から地域のこと、町会のことを一生懸命やっている人に責任を持たせてやってもらうということでしょう。それから、“私は聞いていない・・・”ということがないように、早い段階から進捗状況を皆に知らせる場所を作っておくということが必要ですね。 |
多町一丁目町会さんは飲食店が多いですが、いつ頃からですか。江戸時代は竪大工町と呼ばれた職人の町でしたね。
迫 会長: 私が昭和27年にここに来た時は、すでに飲食店が多かったです。粋なお姉さんや仲居さんがいて、だんな衆が来るような店が多かった。店構えは小さいけれど決して安くはなかったのでサラリーマンは来ませんでした。その頃、昭和30年代が一番活気がある時代でした。 最近は、神田駅、特に北口周辺の環境が悪くなっている気がします。防犯カメラなどを設置して、安全な明るい街にしたいと思っています。 一方、昭和の生き残りのような雰囲気が神田にはあります。再開発等でビルになれば人が増えるかもしれませんが、今あるものを壊すだけではなく、混沌とした良さを残しつつ、何か“きっかけ”を作ってかつての活気を取り戻したいですね。 |
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