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多町二丁目町会長  寒河江 清夫 氏(さがえ きよお)平成18年5月〜平成26年11月

平成20年6月13日(金)午後3時、
神田公園区民館2階のサロンギャラリーに
にこやかな笑顔でお見えになったのは、
第15回目の町会長インタビューのお客様になる
多町二丁目町会の寒河江 清夫会長です。
インタビュアーの斎藤さんとは、青年部長、総務部長の頃からの旧知の仲。
和気あいあいとした雰囲気の中で早速町会のご自慢からお話しいただきます。

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多町二丁目町会さんは、ご自慢がたくさんありますね。大神輿、松本さんの家、また、鳥正、塩栄、石川豆腐店(越後屋)など自慢できる古いお店もありますね。

 大神輿は、二尺八寸ほぼ三尺はありますね。昭和8年の町会再編の時に旧多町一丁目の大神輿を国立博物館に寄贈しましたが、今の神輿ができるまでは国立博物館から借り出して担いでいました。現在の多町二丁目町会は、旧多町一丁目と多町二丁目が合併したのですが、合併前は、ちょうど今の多町二丁目の交差点のところで分かれて、一八通りから神田駅に向かって旧多町一丁目、反対に靖国通りへ向かったほうが旧多町二丁目でした。その後ろにはやっちゃ場がありました。
 

 でも、何といっても一番の自慢は、昭和41年の住居表示が実施されたときに、町名を変えなかったということでしょう。当時の町会長、斉藤政吉氏が“歴史ある町名は絶対に変えてはいけない”と強く言い、役員たちにそれを示して、それが町会の意見としてまとまりました。もしその時、議論を尽くせとなれば議論したのでしょう。
 今は住居表示と町会名が違うから住んでいる人以外はわかりづらく不便な時があります。みんな元の町名に戻せたら粋でしょうね。

町のことで現在気になることは、やはりマンションのことでしょうか。

 ここ数年の間に町会内にマンションが8棟できています。一番大きなマンションでは270世帯もあります。もともと180世帯くらいしかない小さな町会に270世帯ですからね。

 区としては、人が変わっても人口が増えればいいでしょうが地元は困る。戦前から住んでいて、これからもずっとここにいる人と、ポンと入ってきて、すぐ出て行ってしまう人とは価値観も違うでしょうし、ここに住む人が親しみ合って町会を築いてきた“人情”というものがなくなってしまわないか心配です。
 マンションが分譲でファミリー型なら定住も考えられるけれど、賃貸で単身型では町になじむというのは難しいですね。マンションの新しい住民の方が本当に町になじんでいくのに10年くらいはかかると思っています。徐々に神田を理解していただきたいですね。それにしても、今は、この近辺は物価も高く暮らしやすいとは言えません。

さて、町会長になって良かったことをお聞かせください。是非、後に続く人が出てくるような良いことを言ってください。

 自分はお祭りの関係で、ほかの町会の人とも面識があったから、町会長になったからと言って気負いはなかったけれど、これからの町会長さんたちは大変かもしれないなあ。役所から来る仕事も増えているし、町会内にマンションができるとさらに新たな課題も出てくるでしょうね。

 昔は、25年間立派に務めた町会長もいたくらいで、なり手も多く、皆さん大変ながら気持ちよく楽しみながらやっていました。今は、あまりに荷が多すぎて、大変だとばかり思われている。これからの人たちが是非町会長をやってみたいと思われるように、僕らがしていかなければならないのでしょうね。

でも皆さん辛そうな顔はされていないですね。

 町会長になったら、仕事は総務や庶務に頼むからかえって役員さんのほうが大変だね。町会長に恥かかしちゃいかんと皆頑張る。でも、自分がそういう立場だったとき(総務部長だったとき)は、忙しかったけれどやりがいがあった。“よし、やるか!”って、何でもできたね。お祭りのことも全部任せられて仕切った。町会長が上にいてくれたから、後輩にも厳しいことが言えた。

 お祭りを動かすのは面白い。寄付集め、その内容を興して動かしていく。ベテラン役員から少しずつ若い人たちに任せるようにして生き甲斐にしてやりたい。昨年の江戸天下祭がその良いきっかけになりました。中途半端にするとかえって良くないので、一定の予算の中で、すべて責任を持って若い人たちに仕切ってもらった。

後継者作りがお上手ですね。会長が今後の町の若い人たちに期待することは何でしょう。

 私ももう70歳ですよ、自分でも信じられないけれど。マンションができたとき、はっと思いました。普通のお店をやっている人やしもた屋と違って対応がわからない、今まで経験しなかったことが出てきています。伝統ある町会として今後も引き継いでいかなければならないが、これからの若い人がどうしていくか。 
 今の若い人は、いろいろな情報を持っているけれど、人と人の面と向かったコミュニケーションを大切にしてほしいですね。

 お祭りでは13ヶ町は仲が良くて本当に楽しい。8町会の神輿合わせなんかもう何年やっているのか忘れてしまうくらい・・・。楽しかったなあ。青年部の連中は祭りの何か月も前から楽しんで準備する。多町大通りの神輿合わせは、最初は、多一、多二、鍛冶三の3町会でした。お互いの町会の神酒所へ挨拶に行く途中で、神輿がたまたまかち合ってしまう。今でも、8町会の神輿は巡行の途中に多町の交差点で偶然会ってしまいますが、昔は携帯電話がなかったから大変でした。(笑)
 (写真は、平成19年の神田祭のとき)

 携帯電話と言えば、僕は持っていないのが自慢ですが、以前、宮入を一番でやったとき、13基の動きを全部把握するため、町会の若い人がNTTから借りてきたのを持たされたのですが、使い方がわからないまま壊してしまって・・・。結局、若い役員たちが走り回ることになった。それ以降青年部からは“寒河江さんには携帯は渡さない”と言わている。
 今の若い人たちは、携帯電話やメールを便利に使っていると思うけれど、やはり顔を合わせてのやりとりが必要ですね。マンションの人たちとも顔を合わせて話し合いができれば地区内のコミュニティの活性化も図れると思います。7月の子供縁日のご案内も出すので来てくれるといいですね。

(写真は平成17年の神田祭のとき、神酒所前で町会員全員で記念撮影)

それではいよいよ会長ご自身のことを伺います。子供のころのニックネームや“こだわり”なども教えてください。

 僕は、昭和13年生まれで、兄弟は二人の姉と僕の3人です。
 疎開先の山形で小学校1年生を過ごし、その後は神田小学校へ行きました。呼び名は「キヨちゃん」です。趣味は昔はスキー、親父の田舎が山形なので蔵王でよく滑りました。高校時代はバスケット、大人になってからは野球、とにかく体を動かすのが好きでした。

 僕が子供の頃は、一八通りの縁日が賑やかで、中央通りから本郷通りまでびっしりと店が出て盛況でした。娯楽がなかった時代ですから、皆、縁日を楽しみにしていました。
 遊びは、路地で“釘さし”なんか夢中になってやりました。五寸釘で引く線をだんだん狭くして相手を逃がさないようにしていく遊びです。あとはビー玉ですね。
 小学校の近くにキューピー堂という駄菓子屋があり、子供のたまり場でした。“もんじゃ”なんかやっていましたが、うどん粉ばかりで、今でも“もんじゃ”は美味しくないというイメージがあるね。

(平成19年10月14日町内の松尾神社で)

 食べ物の好き嫌いや特にこだわるものはないですが、最近痛風になって好きだったビールが飲めなくなったことが残念です。昔は、ウイスキーは安かったんですがビールは高くてなかなか飲めなかった。それでビールが飲みたくて仕方がなくて・・・こだわりすぎたんでしょうね。

(写真は学士会館での結婚式、昭和40年11月)

長く消防団でご活躍されていますが、神田消防団の副団長さんとして何かメッセージはありますか。

 今年は鎌倉町会から2名も入っていただきましたが、部員に若い人がなかなか入ってきてくれないのが悩みですね。青年部の人たちには是非入っていただきたい。月一回の訓練があって大変だと思うかもしれないが、それが団員間の和になっている。消防団では応急救護も学べるし、他町会の人たちと接する機会もあり、いろいろな意味で学ぶことが多い。僕は40年もやっていて、もうすぐ定年ですが、消防団での活動が自分にとっては良い経験だったと思っています。現在、第二分団の団員は38名、僕が卒業するまであと10名は入団して欲しいですね。

(写真は本年元旦に神田明神で)

最後に「大好き神田」についてお聞きします。ご覧になったことはありますか。

 申し訳ないけれど、普段は見ていません。このインタビューが載ったら見てみます。僕ら位の人たちはコンピューターに弱いけれど、「大好き神田」で防災情報が見られたらいいですね。

 

♪ インタビューを終えて
 寒河江会長さんには先輩青年部長として数々ご指導をいただいてきました。今回改めてインタビューの機会をいただき、また有益なお話を伺うことができました。
 『大好き神田』をご覧の皆様にも町会長としての寒河江さんの魅力を感じ取っていただければ幸いです。
 寒河江会長さんの今後のご活躍と多町二丁目町会さんの益々のご発展をお祈りいたします。
斎藤

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