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神田鍛冶三会町会長  西出 徳一 氏(にしで のりかず)平成7年4月〜平成24年2月

平成20年8月26日(火)午前10時
今にも降りだしそうな曇り空のもと
「町会長いんたびゅー」の16人目のお客様に
神田鍛冶三会町会の西出徳一会長をお迎えしました。

インタビュアーは斎藤さん(内神田鎌倉町会)。
にこにこ顔の西出会長の「何でも聞いてよ。」という一声で
インタビューが始まりました。

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最初は、皆さんにお聞きしている定番の質問です。神田鍛冶三会町会さんのご自慢は何でしょう。

 平成18年に、神田鍛冶三会町会の永年の交通安全への取り組みが認められて、警視庁の大講堂で警視総監賞を授与されたことかな。このときの受賞は東京で3町会だけだった。
 もう一つは神田祭のときに設えるお仮屋、これが神田鍛冶三会町会の自慢ですね。

鍛冶町一丁目、二丁目とありますが、昔ながらに「神田」がついた鍛冶町三丁目というのは、神田鍛冶三会町会さんだけですね。これもご自慢の一つですね。

 神田駅がなくなったら「神田」は外してもいいかもしれないが、「神田」があるうちになぜ「神田」を外すんだっていうことだよ。
 住居表示は山の手には良いかもしれないが、千代田区には無理、「内神田」ではわからない。全部元の町名に戻したほうが良いかもしれない。
 昭和41年に実施された住居表示も途中から町名を変更しなくても良くなった。千代田区のように歴史が残っているところは、旧町名のままにしておけば良かったんだ。



戦争の時に神田鍛冶三会町会さんは燃えなかったんですね。

 美土代町会や鎌倉町会のエリアは燃えたけれど、うちの町会は燃えなかった。私は旧東紺屋町から昭和20年2月25日の空襲を見た。その日の東京は雪が降り積もり、B29が来ても音はするけれど姿が見えない。でも、その音で低空で飛んでいるということがわかって怖かったね。

(写真は、警視庁の大講堂で警視総監賞を授与されたとき)

 3月10日の空襲のときは岩本町の交差点から、本所・深川方面が燃えているのが見えた。和泉橋から佐久間町方面にかけて焼夷弾が落ち、橋も渡れなかった。
 うちの町会が空襲を免れたのは、鉄道の沿線だから、鉄道への被害がないように沿線は爆撃をされなかったんだろうね。戦後も省線は止まらなかったでしょう。全部動いている。ニコライ堂付近も焼けなかった。今思うと、すべて計算して爆撃していたんだね。


(写真は、平成19年の神田祭でお仮屋を背景に並んだ町会役員さんたち)

 そういえば昔はよく大雪が降った。べったら市の頃から寒くて、皆、厚いオーバーを着込んだ。今は10月にオーバーなんて考えられないだろうけど。

※「べったら市」 
 毎年10月19日・20日に中央区日本橋の宝田恵比寿神社の門前で開催される市
 べったら漬けが評判

次は会長ご自身のことを伺います。子供の頃はどんなお子さんでしたか。

 昭和2年生まれで、小学校は今川小学校だった。小学校の頃の友達はもうほとんどいない。遊んだ子もいないね。年賀状が来なくなったからわかる。
 7〜8年前に小学校の同窓会があったが、集まったのは12〜13人だった。

(写真は、今年の正月に町会で神田明神へ初詣へ行ったときのもの) 

 生家は東紺屋町の「鳶の頭」、兄弟は2人。私は戦後、家業を継がずに神田鍛冶町で電気屋をやっていた。弟(組頭の西出幸二氏)が親父の跡を継いだ。
 幼稚園くらいの頃は「坊やちゃん」なんて呼ばれていた。大人になってからは、親友には「のりちゃん」と呼ばれた。


 中学時代は軍事教練で御殿場に数回演習に行ったが、食べるものも不足していて、お腹が空いて動けなかった。鉄砲を担いでも満足に歩けないくらいだから、撃ったって当たるわけがない。使っている鉄砲そのものも古いものだった。先輩から「西出、志願して行くものじゃない。」と言われたのが良くわかった。その先輩も戦死してしまったが。
 敗戦色が濃くなった頃、志願して航空隊に入った友達は特殊潜航艇にも乗せられた。あの状況で、戦争がもう少し続いたら、もっと大勢の若い人が死んでいただろうね。その頃は、良いも悪いもわからない、皆一つの方向に流されて、そういうこと(志願すること)に憧れてさえいた頃だった。

西出会長さんの趣味は何でしょう。

 趣味は、今は無いね。昔は小唄などいろいろやったけれど、今はこれといった趣味は特に無い、仕事だけ。ただ、毎年の大雄山へのお参りは続けている。私が講元としてずっと続いていて来年で59回目になる。

 こだわりとか、これだけはゆずれないというものも別にないね。食べるものさえ無い、物がなかった時代に育ったから。むしろ今の若い人のほうがあるでしょう。


(写真は、平成16年4月4日に大雄山不動尊での記念撮影)

最後に「大好き神田」についてお聞きします。ご覧になったことはありますか。

 ホームページは見たことがない。「神田を歩こう」に掲載した店や事業所も、この5年間で半分くらいになってしまった。銀行が移転し、昔の店もほとんどなくなった。
 若い人たちはサラリーマンになり、区内には住んでいない。町で家業を営んでいる人たちは皆高齢化しているし、昔は雇い人がいて人手もあったが、今は家族だけできつきつで商売をしているので、町会の用事で出かけるときなどは電話番もいなくなる。だから役員の引き受け手を探すのが難しいし、区からの仕事もこれ以上増やさないで欲しいね。

♪ インタビューを終えて
 西出会長さんには、お忙しい中を「大好き神田」の為にお越し頂き有難うございました。
 会長さんとは長いお付き合いですが、こうしてゆっくりお話を伺ったのは初めてで感謝です。載せきれないほどのお話しを伺い、ああそういうことだったのかと解る事もありました。

 西出会長さんが、お元気で益々ご活躍されますよう。又、神田鍛冶三会町会さんが益々発展されますようお祈り申し上げます。

斎藤

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