千代田区・神田公園地区連合町会のサイトです。

千代田区神田公園地区連合町会

行政上の区割りでできたこの地域(神田公園地区)は江戸時代に発展した町です。
この町を歴史・文化的な側面からみると大きく以下の2つの地区に分けることができます。
武家地が母体となっている
錦町・小川町地区(錦町1〜3丁目、小川町1〜3丁目)と町人が活躍した内神田地区(美土代町、司町1〜2丁目、旭町、鎌倉町、多町1〜2丁目、鍛冶町3丁目)です。


錦町・小川町地区

護持院ヶ原
護持院ヶ原

『錦町・小川町地区』は現在の「神田警察通り」を挟んでその南側と北側とでは全く異なった景観が広がっています。

北側には一面に武家屋敷が広がり甍の波の向こうに駿河台の台地が眺望できます。それらの武家屋敷のなかでも「越後高田藩榊原家上屋敷」「常陸土浦藩土屋家上屋敷」「山城淀藩稲葉家上屋敷」などは、広大でひときわ大きな構えの屋敷でした。これらの町々は武家地であるため当然町名はなく「小川町」という名前は俗称で呼ばれていました。

「神田警察通り」の南側は、そのほとんどが「護持院ケ原」と呼ばれた原っぱで錦町二丁目町会・三丁目町会がそれぞれ「二番明地」「三番明地」と呼ばれた原っぱに相当します。「護持院ケ原」とは五代将軍綱吉がこの地に建立した密教の大寺院「筑波山護持院元禄寺」が享保2年(1717)正月の大火で焼失した跡地を「火除地」とした場所です。この広大な空き地は将軍の猟場として使用されていましたが、一般にも解放され庶民の憩いの場になっていました。

明治期以降になると、この広大な「火除地」を利用して大学南校(明治2)[現東京大学]・東京外国語学校(明治6)[現東京外国語大学]、華族学院(明治10)[現学習院]他、現在の一橋大学の前身にあたる高等商業学校(明治18)などが建設され、「警察通り」北側の武家地も町屋に変わり武家屋敷の大きな敷地を利用して学校が周辺の町々にも多く建てられました。

学生を相手に書店ができ、それに関わる出版、印刷、製本業が多く見られるようになり教育・文化の中心地となりました。戦後、爆発的に学生を中心とした若者達をタ−ゲットにしたスポ−ツ用品店が軒を並べるように建ち並び活気のある町並みへと変貌して現在に至っています。


内神田地区

多町市場
多町市場

『内神田地区』は江戸開府以来の古い町々であり、職人・町人の町として旧町名からもそこで暮らす人々の生業を想像することができます。

一例を挙げれば
◆竪大工町(一部多町1丁目):大工職
◆横大工町(多町2丁目、司町2丁目のうち):大工職
◆蝋燭町(司町2丁目のうち):ろうそく製造業
◆白壁町(一部鍛冶町3丁目):左官職
◆新銀町(司町2丁目、多町2丁目のうち):銀細工職
◆鍛冶町(一部鍛冶町3丁目):鍛冶師、鋳物師などです。

これらの町々の中でも特筆すべき町は、江戸庶民をはじめ「御用市場」として将軍様ほか江戸城下の胃袋を支えた「神田青物市場」の中心地であった多町でしょう。通称「多町市場」の歴史は古く、慶長年間(1596〜1615)に神田多町の名主河津五郎太夫が開いた菜市がその始まりであるといわれています。粋で人情味深い「神田っ子」の代名詞ともなり、朝靄のなか熱気を含んで相対(あいたい)取引をする市場人が行き来した姿は、昭和3年秋葉原へ移転するまで300年以上続いていました。

もう一つ忘れてならないのは、雉子町(司町2丁目のうち)の名主、斉藤月岑(げっしん)の事でしょう。斉藤家は徳川家康入府の頃からの草創名主として雉子町ほか五町の名主を勤めていました。その一方前述の「多町市場」を監督する傍ら現在の江戸研究者にとって必読の書である『江戸名所図会』『東都歳時記』『武江年表』などをまとめあげています。その郷土の誇る文化人である月岑の生家が神田雉子町八番地(現司町2丁目6番地と8番地の境辺り)です。

職人の町であり、市場の町であり、月岑が生活の場とした内神田地区もオフィスビルが建ち並ぶサラリ−マンの街へと様変わりしました。昔からの住民も櫛の歯が抜けるように立ち退いてしまい平成のバブル崩壊後は空き地とワンルームマンションが目立つようになり往時の町の姿を偲ぶことも全くできなくなってしまいました。